現役時代の海外滞在記、海外旅行記、写真仲間の記録です。


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<   2012年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

ボストークホテル

ナホトカ港に入港すると、港内は一面の氷原と化して、市民が長い鉄棒を持って、沖の船の傍に歩いてくる。市民は氷に穴を空けて釣りを始める。釣果は知らないが寒い釣りだ。やがて、船は接岸して上陸だが、ボストークホテルにチェックインする。ナホトカの一流ホテルだが、3階建てだった?様な気がする。エレベータは無く階段で上がる。大部屋を割り当てられて4人のスタッフが同部屋だ。クレームは出せない。ホテルの言うが、ままだ。トイレ、シャワー、バスルームは共同使用。トイレの個室はドアーが壊れて閉まらない。個室の前を通り過ぎるロシア人は、ドラストビーチェ と、座っている私に挨拶して行く。我々は三階に居たが、階段上がって来ると、階段の踊り場に椅子が置いてあり、椅子からお尻がはみ出すようにして座っている太っている、おばちゃんが居た。何のために座っているのか、後で分かったが、住人以外の人が来ると警察に通報して取り締まる為だった。ある日、シャワーを使って暖まり、頭にタオルを載せて長い廊下を部屋に戻る時、目の前で客室のドアーがバーンッと、勢い良く空いた。何事かと思っていたら、次に全裸の若い女が廊下に飛び出してきた。飛び出したのでは無く、放り出されて廊下に投げられたもの。真っ白き肌が目に焼き付いている。すかさず、コートが室内から、廊下の女に投げられた。室内を覗くと軍人がベッドに座っていた。他に取締官と思われる男が二人立って居た。ロシアは不倫罪が在り、取締が厳しく、監視ばばぁが、告げ口したのでしょう。廊下に放り出された女は、コートを肩から掛けただけで氷点下の表に連行されて行った。当時のロシアは共産主義で官憲の力は強く、一般人は逆らえない状況でした。増して違法行為では救いようがない。
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by gantou | 2012-03-28 16:17

ロシア出張

1969年2月ロシヤ・ナホトカに出張した。当時、横浜~ナホトカの客船航路が有ったが、我々はデンマークのケーブル敷設船、ストア ・ノルディスケ号 1500tで渡航した。客先のスーパーバイザーも乗船し船旅の始まりです。見送りに来た友人が、こんなに小さな船で日本海600kmを、乗り切るのか?!と、驚きと、哀れみの目で見ていた。船は最期の航海でこの任務終了後、廃船になる運命の老朽船で、船長が買わないかと、話していた。 我々の任務はKDDが新たに敷設した海底ケーブルを利用して、日本の直江津からロシアのナホトカ地上局を経由して、モスクワと結び、日本・ヨーロッパとの通信回線の拡充を図るもの。そのナホトカ地上局へ通信装置の輸送船に便乗し、渡航した物。横浜港を出港して太平洋岸を北上したが、津軽海峡を出るまでは穏やかな船旅でした。舳先が津軽海峡に出た途端、船はシベリアからの猛烈な向かい風の季節風で、進まなくなる。津軽海峡の日本海側に在る、小島、大島が操舵室のレーダーに映るが、島影は何時までも距離が変わらず船のスピードが、向かい風で上がらない事を示していた。船内では、揺れも激しく、上下に揺れるが、後尾のスクリューが海面上に出て、ゴーォと、唸る様に空回りする。食事時にはテーブルも揺れるが、身体を、椅子に落ち着かせるのも大変。テーブルの食器が滑り始めて動き出す。ボーイが直ぐに、白いテーブルクロスに水を撒き、食器の滑り止めを図る。更にテーブルの周囲に10cm位の板を立て、物が下に落ちない様に囲いを付ける。普段は下に、ぶら下がる様に垂れ下がっているが、非常時に180度起こすわけ。その状態でも、テーブルは波の上下で傾くが、どうにか、木枠の中へ肘から腕を入れて食事できるが、何人かは船酔いになる。荒れた船上で美味い酒と、美味しい料理を食し、お腹一杯になる剛の者も居た。船は揺れるが、当然、波飛沫も甲板を洗い、冬の氷点下の甲板で、飛沫は船上のロープから手すり等、あらゆる物を氷で覆い尽くす。乗組員はそれらを放置すると、船の転覆に繋がるので、片っ端からハンマーで氷を叩き落とす。甲板は氷で滑り易く転べば、荒海に飲み込まれる危険な作業です。船員で甲板員は香港からの雇用で、全員が中国人でした。
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by gantou | 2012-03-23 18:37

関東大震災

東北大震災・津波災害から一年経ちましたが、亡くなった母が、関東大震災を経験して、体験談を話してくれました。大震災の時、針子の修業していたが、地震発生で表に飛び出して、針子の仲間と、表の通りで肩で四つに組んで、倒れない様にして揺れから身を守っていたと話していた。揺れが修まり歩ける様になってから針子の友と別れたが、それっきり彼女とは会えなかったと、話し、彼女の安否も分からず、どうしたろうねェと、言っていた。 揺れが治まった後、母は家に逃げ帰り家族と避難したが、震災後、火災が発生して、町は熱かったそうだ。母達は深川の木場の運河に飛び込み熱波から身を守ったと言う。その方法が川の中で、”むしろ” を、祖父が母や家族の頭に被せて、川の水をむしろに、掛けて濡らし熱を防いだ。熱波は強く、むしろが直ぐ乾き熱くなるので、その都度、祖父がむしろに水を掛けて凌いだという。その時、近くの場所、広場で避難民が10万人焼け死んでいる。避難で持ち込んだ、箪笥などの家財道具が、熱波で次々と、発火して広場は紅蓮の炎で埋まったそうだ。震災の火事は火が無くても、熱波で自然発火して燃えるそうです。家族は、その後、栃木県足利に逃げ、祖母の実家で、家を建ててもらったが、その仮住まいで暫く生活していたそうだ。母は、それ以後、地震が来ると、”震度 1” でも、寝ていても起きる様になった。恐怖が、身に染み付いて居たのでしょう、今年は母の生誕101年になります。その母も94歳で亡くなり、七回忌で母を偲びました。
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by gantou | 2012-03-16 18:41

研修出張

1972年、6月、アメリカ・ワシントンDCに出張で研修に出掛けた。目的は衛星通信の保守用連絡回線に使われる電子交換機の実習である。世界の地上局をカバーする衛星が、大西洋、太平洋、インド洋の上空36000kmに静止型衛星を三基打ち上げ配置し、全世界をカバーしている。電子交換機は各国の地上局同士を接続して、保守用連絡回線を形成するもの。そのシステムは、NASAのエンジニアがミニコンピューターを、中核に据え付けた装置を開発し、電子交換機化して起業したもの。世界の通信地上局は衛星通信機構 INTELSAT からの推奨で、そのシステムを、新設の地上局は義務的に購入させられた。我が社の衛星通信システムも其れを客先に納める必要から、誰かが研修に出掛ける事に成った。1972年当時には、コンピューターは、まだ一般化されて無く、ミニコンと云われても、後年、NEC が開発した98コンピュータより、性能は低く、メモリーはフェライトコアーで、小さなメモリー容量だった。このミニコンに僅かな仕事をさせるだけでしたが、年中、壊れて修理の連続で、客先引渡が遅れて、プロジェクトの足を引っ張った事を思い出す。
  実習はワシントンの会社で行われたが、ミラーさんが、装置説明書を基に説明するが、コンピューター事始めの私と相棒には、用語自体が初めてで、大変なことになったと、覚悟した。ワシントンの観光も無く、ホテルに籠もって、毎日説明書と格闘していた。語学は相棒が出来ると言われて居たが、頼りにしていた相棒の語学は、私より貧しく、とても助けにならず毎晩3週間を徹夜同然の状態で過ごしたことを覚えています。ミラーさんが辛抱強く教えてくれたので、どうにか取り扱いを習熟して、総てを身につけた。当時のミニコンはテレックスの送信機と同じテープリーダを使い、ミニコンのブートストラップ(パソコンのBIOS)を、紙テープに印字されたデータを入れる必要が在り、電源を入れても、手動で一連のオペレーションにより、ミニコンを立ち上げる必要が在った。この誰も知らない特技のお陰で、スイス、カタール、ニカラグア、メキシコへ、訪れる事が出来たのは良き想い出です。
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by gantou | 2012-03-09 12:54

ある日の情景

写真のソフトでフィルターを購入した。二年前の情景だが秒速で変化して行く色彩に見ていた人は歓声を上げていた。色が中々再現できなかったが、このソフトで良い色が出て来た。デジタル写真は色々なデーターが内包されていて、それらをソフトで引っ張り出すと、画像は見違える程、変化する。
b0213639_8591259.jpg

写真愛好会で掲示することにした。写真の上で左クリックすると画像は拡大されます。オリジナルは高さ34cm横1.2mあります。
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by gantou | 2012-03-04 09:00